音楽以前の音楽テクノロジー論序説
Introduction to Theory of Musical Technology before Music

佐近田展康


第2回 記号と機械

Xebec "Sound Arts" vol.15 (1998)所収

English translation

 テクノロジーを語る視点は数多くある。にもかかわらず、「文化現象としてのテクノロジー」という視点で前回語ったのは、こういうことだ。テクノロジーは、その多彩な表面上の現れ、例えば、蒸気機関や電話、コンピュータや遺伝子操作を超えて、それらの内側に潜む文化的な側面を持つものだということである。「文化的」という言葉で指しているのは、社会的意味の体系、乱暴に言えば、それを通して人々が世界を意味づけるメガネのようなものだ。日常的な言葉では「ものの見方」、難しく言えば「世界を認識するための準拠枠」と言ってもいい。
 あえて、ぼくが「ものの見方」を強調する理由は2つある。ひとつは、現代のテクノロジーが、決して非歴史的、普遍的なものではないという意味で、そこから距離をとったり、相対化できる余地を残しているということ。メガネを外すことはできないかも知れないが、自分がメガネをかけていることくらいは自己認識できる。もうひとつは、テクノロジーそのものが、科学がそうであるように、実は、技術的でも合理的でもない、ある種の神秘的信仰で構成されているということ。この信仰は、徹底的に「合理的なもの」として現れている今日のテクノロジーにおいても、深層部深くからその全体を彩色している。これはテクノロジーと芸術の関係を考える際に決定的に重要な問題になるはずだ。
 では、その信仰とは何か?それが今回のテーマであり、記号と機械というメタファーで語ろうとするものである。「テクノロジカルな合理性」は、まさに、記号と機械の信仰の上に、構築されてきた合理性に他ならない。


  • 記号への還元 _____ アルファベットと印刷

  • 「ものの見方」は、必ず両端に「見ている主体」と「見られる世界」のあり方を含み込む。技術は人間自身の外化(対象化)であり、これはコミュニケーションと同様、人間にとって自己認識の本質である。ハンマーは拳の、ハサミは歯や爪の、車輪は歩くことの外化である。その最も重要な特徴は、身体や行為を、それがもともと置かれている反応系列から切り離して、目で見て理解したり操作できることである。外化されたものを知るということは、自己を知るということに他ならない。激情にかられた暴力の最中には、拳は行為の中に埋没している。しかし、例えば棍棒や槍として拳を外化するとき、人は拳の暴力性と力学を理解する。こうして人間は外化した自己を再び内面化し、それをもとに世界を見る(意味づける)。いや、この動的な過程のうちに、自己と世界が同時に「現れる」のだ。それは、技術が自己と世界を媒介するものに姿を変える瞬間でもある。棍棒や槍が媒介となって、戦士である自己と侵略者である他者、正義と悪、領地と敵地が出現する。決してその逆ではない。
    人間が自己を外化する方法、すなわち技術は、何も道具や機械だけではない。「書くこと」はまさに言語行為を外化する技術であり、とりわけ、表音アルファベットは、その過程に分析的で均質な材料を提供した。言語を外化することは、言語が埋め込まれている行為系列から、思考過程、そして言語により表象される世界を切り離し、視覚空間の中に位置づけることである。書くこと、および書いたものを推敲・編集することは、思考や世界の視覚的操作に他ならない。書いたものは、完結した思考を生みだす。およそ体系的な思考は、書くことを離れては成立しない。しかし、文字を持つ多くの文化的伝統では、文字は非合理な力、神聖な力を持つ象徴であった。唯一歴史的に限られた地域だけが、文字からこの象徴性を取り除くことに成功したのだ。
    子音字と母音字を持つギリシアの完全なアルファベットは、言語を均質な単位___音声を分析的に表象するたった24個の弁別的記号___の組み合わせに「還元」する。つまりアルファベットは、言語にとって本質的な「意味」の堆積を、文字から切り離したのである。これは、世界をまるごと均質なフォーマットの上にマップし、すべてのものを数値や情報といった属性に還元できるという「信仰」の根本を準備する。一字一字が、身体への刻印の記憶を残し、超越性と快楽と死の象徴次元に爪先を浸している漢字からは、この発想は出てこない。
    15世紀半ばのグーテンベルクの活版印刷術は、アルファベットに内在するこの性質に、さらに明確で具体的な姿を与えた。思考や世界の視覚的操作は、活字という具体物の物理的操作になり、一方で操作が行われる場としての均質な空間の意識をもたらした。そしてこの過程全体に、はっきりと機械の姿を投影するのだった。
  • 象徴としての機械 _____ 自動人形と時計

  • 単なる道具が身体器官の外化である一方、機械は一連の運動プロセスの外化である。機械が実用性や効率性の象徴となったのは、新しいことである。それ以前に、人々を驚かせる神秘的見せ物としての長い歴史を、機械は持っている。何の役にも立たないことが、逆にその本性を浮き立たせている場合は少なくない。技術を通じて自己を外化し、自己を知るという人間の本質を考えるとき、生きている自己の全体像を丸ごと外化しようとする試みは、ある意味で、自然な成りゆきだ。実際、この試みは、機械の歴史と同程度に古く、ロボットや人工知能が工学的に議論される今世紀になってはじめて試みられているわけではない。
    古代アレキサンドリアでは、ねじ、くさび、梃子、車輪などを巧みに組み合わせた自動人形を作った。それは宗教劇に登場したり、聖水を出すことで、人々に神秘的な驚きを与えた。イスラム社会を経由して熟成された自動人形は、17世紀から18世紀のヨーロッパの街角で開花する。ヴォーカンソンの精緻極まる自動人形(唇と舌で空気の流れを調節し、指でメロディを奏でるフルート奏者)は、自己の外化としての機械のひとつの完成形だった。
    この自動人形の技術は、機械時計の発展の中で培われて来たものだ。17世紀の時計は、すでにゼンマイと平衡輪をそなえた小型精密時計であり、中流階級へも次第に浸透しはじめていた。当時の時計には、海上航路の経度測定など実際上の機能があったことも事実だが、広範な人々が、正確にしかも私的に、時間を知らなければならない理由はまだなかった。時計は、自動人形と同じく、実利性とは異なる象徴的機械として存在していた。その象徴性の源泉は、「自立して動く」という単純な事実に他ならない。
    近代の薄明の時間を、機械時計が刻んでいた。時計は、宇宙の運行、自然のシステム、そして人間の象徴的なメタファーになった。デカルトもガリレオもニュートンも時計を思い描くことで、近代の扉を開いた。西欧思想史を強烈に照明する「機械論」的伝統の機械とは、まさに時計に他ならない。科学の分析と総合の手法は、時計の分解と組立であり、数学や物理学の基盤となる抽象的で均質な時空の画一的分割は、すでに時計がチクタクと(微積分の音で!)刻んでいたものだった。時計は人類最初の工業製品であり、その需要の増大は工作機械の動力開発を要請し。(、)時計士は、同時に紡績技術者となり産業革命をブレイクさせた。すなわち生産のための機械という歴史的な流れを放流したのである。近代そして今日の西欧的知およびテクノロジーは、すべて機械時計という一点から放射されていると言っても過言ではない。
    時計はいったい人間の何を外化したものなのか?それは、人間と世界の最も奥底にある神秘性の外化なのだ。自立した運動体(削除)、絶えざる反復、すなわち人間および世界、究極的には「生きている」ことの外化なのだ。力学の時代において、自動人形が人間の具体的な身体の投影であるとすれば、時計は高度に純化され、抽象化された人間の生命の投影なのである。
  • 生産のための機械

  • 機械と資本主義経済の関係は、本一冊では足りないくらい綿密な議論が必要だろう。しかし、結局、機械は資本の原理的な部分と同化し、今日では当然視される「生産のための機械」となった。それは、人間と世界の両方が生産過程に巻き込まれることと同じだった。この過程で、機械は、実利的なもの、効率的なものという性格を、あたかもその本性であるかのようにラベリングされる。時計の時代にはゼンマイや振り子といった微弱な動力で事足りた。しかし生産のための機械へと移行してからは、より大きなエネルギーが必要とされ、19世紀は動力生産の時代となる。巨大な工作機械のための巨大なエネルギー。機械の各部分は、それぞれ独立した機械として機能分化し、それらを結ぶ効率的生産ラインが整備される。何かを生産するための機械を生産するための機械を動かすための動力を生産するための機械.....という目的-手段系列の連鎖が果てしなく続く。
    人類が自然から誘い出した巨大なエネルギーは、生産のために手なずけられなければならない。続く20世紀は、まさにじゃじゃ馬馴らしの時代、すなわち制御と通信の時代としてスタートする。機械が生き物のように安定して機能するためには、自身および環境の状態を機械自身が知らなければならない。情報、エントロピ−、フィードバックといった概念が、それまでの閉じたシステム観を外部に拡張した。
  • サイバネティックな機械
  • 制御と通信を扱う学際的な研究として、サイバネティクスは産声をあげた。サイバネティクスとは、本質的に、機械をめぐる、より抽象的で包括的な視点への移動に他ならない。ここに至って機械は変換システムという概念になる。それは物質を基底におくのではなく、記号(情報)を基底にした機械なのだ。世界を均質な記号単位に還元する歴史過程は、表音アルファベットから印刷、科学的数量化を経て、最も単純で明晰な究極の記号である0と1への還元に到達した。機械化と記号への還元という2本の線は、科学と資本主義的生産の歴史を通して、互いに強く影響を与え合いながら延長し、ここに初めて交差したのだ。
    そして、奇妙なことに、サイバネティックな機械は、自動人形や時計にある本源的な「機械性」を現代に復活させた。ようやく、ぼくたちはコンピュータについて語る地点にまでやってきたようだ。

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