音楽以前の音楽テクノロジー論序説
Introduction to Theory of Musical Technology before Music

佐近田展康


第3回 コンピュータの彼岸

Xebec "Sound Arts" vol.17 (1998)所収

English translation

 目的に対する手段だとか、膨大な具体的現れのレベルではなく、テクノロジーを「ものの見方」だとする前提から出発したぼくたちは、その象徴的なアスペクトとして「記号」と「機械」に出会った。そして、それらの背後には人間の合理性を追い求めるそれ自体は決して合理的でない信仰が隠されていることも見た。今日、記号と機械は「情報」という名前の新たな知識カテゴリーのなかに溶け込んでいる。これまで知識と呼ばれていたものが、いまは情報と呼ばれる。今回のテーマはコンピュータであるが、ぼくの関心は、目の前の強化プラスチックに包まれた白い物体ではなく、やはりその向こう側にあるものに向けられる。情報機械として特化されるコンピュータは、情報が生息する大きな海のそこかしこにかりそめの姿となって現れる波頭のようなものかも知れないからだ。

  • 普遍的神話と神の眼差し

  • コンピュータの話題に進む前に、これまでたびたび繰り返されてきた社会思想上の循環運動について考えたい。コンピュータを語るときに、その技術的な側面をいくら詳細に綴っても、一向にコンピュータの正体が見えて来ないのは、実はこの思想史の問題が欠落しているからだ。
    古代の神話であれ、宗教であれ、近代の科学であれ、それらは要するに世界を認識し説明する言語システムだ。それぞれが普遍的な世界観を標榜するなかで、これらのシステムは、有意味な世界がカオスへと解体して行きはしないかという根元的な恐怖から人間を救って来た。相対的に安定した「大きな世界観」の中に安住していた時代が過ぎ、近代はまさに普遍性の百花繚乱、競合と闘争の時代の幕開けとして出発した。学問は個別分野に専門化し、互いに排他的で、翻訳が不可能な関係に陥った。それぞれのシステムでは支配的な理論が勝利し世界を説明する。そのうち体系性にとってのひび割れ、つまり矛盾が生じ、より高次のメタレベルで矛盾を解決する理論が生み出され、以後この循環が続いていく。言うまでもなく、こうした過程で最も洗練されて行ったのが数学と物理学であった。この2つの言語システムが、科学を構成する諸学問に対してメタレベルに立ち、近代以降の普遍神話の競合を束ねる骨格を形作って来たのである。
    今世紀の始めには、この骨格=西欧的ロゴスを究極の部分で捕まえようと、核心にメスが入った。物理学は世界を構成する究極の粒子を求め素粒子理論へ向かう。数学の基礎を成り立たせているもの、およそ論理的と言われるすべての知の営みが絶対的に従わざるをえない究極の「論理」そのものを、明晰に記述し操作しようとする記号論理学[Symbolic logic]が生まれる。さらなるメタへの旅だ。視点をメタレベルに移しては透明な体系性を確保し、その体系が濁って危うくなれば、また視点をメタレベルに移す。このダイナミズムを支えている力は、究極の原理で森羅万象すべてを統一的に説明し、認識し尽くそうとする欲望、神の眼差しと一体化する欲望に他ならない。
  • チューリング・マシンとコンピュータ

  • 記号論理学は、その目論見の壮大さと同時に難解さと地味さのために、母体である哲学の領域でさえ誰もが容易に近づくことのできる方法には熟成しなかった。つまり時代を牽引する思想上の動力にはならなかった。おまけに数学の世界で暴露された「無矛盾な体系などあり得ない」という論証がさらに旗色を悪くし、暗号を書き連ねる記号論理学は一種の秘技となった。しかし、その最も深遠な部分は、ほどなく哲学者の手から離れ、実用化という思ってもみない道を歩むことになる。
    1936年にアラン・チューリング[Alan Turing]が、あらゆる記号操作が可能な理想的な機械に関する数学的モデルを表明する。その約10年後にジョン・フォン・ノイマン[John von Neumann]が真空管を用いた具体的な機械としてチューリングのモデルに姿を与える。以来、コンピュータは根本的な変更、修正を受けることなく現在まで発展してきた。論理回路を担う部品が真空管からシリコンチップへと変化し、演算速度が光に追いつこうとも、コンピュータの本質はチューリング・マシンの構想から一歩も踏み出してはいない。それが行なっているのは、有限個の規則にしたがって、一度に一個の離散的記号を置き換えるだけのことに過ぎない。
    チューリング・マシンとは、長さに制限のない紙テープと、そこに書き込まれたマークを読みとったり、新たに書き込んだり、テープを任意の位置に動かす操作規則を実行する機械の構想である。この単純な機械が、理論上あらゆる論理操作を可能にするのである。しかし、チューリングの目的は便利で実用的な計算機を作ることではなかった。彼の意図は、論証が不可能な数学的命題が存在すること、つまりチューリング・マシンに乗せることのできない規則や永遠にテープを回しても解が得られない問題が存在することを証明する数学上の課題であった。しかし、その過程で示されたのは、数学をはじめあらゆる論理的思考を基礎づける論理の核心が、ひとつひとつは極めて単純な記号操作に他ならず、その個々の過程は純粋に形式的=機械的なものだということだ。チューリングの背後にはすでに記号論理学の迷宮が広がっていたのだが、千年以上に渡って熟成されてきた西欧的ロゴスの核心と限界が、かくも単純な記号の機械的操作に要約されてしまったわけだ。そして、ノイマンはこの歴史的な青写真に現実の姿を与える決定的な一歩を踏み出す。
    したがって、最初の目的が砲弾の到達距離の計算であったにせよ、コンピュータは数学的計算を行うための機械ではない。コンピュータにおいては、足し算のような基本的な算術計算もANDやOR、NOTといった論理回路により行なわれうる。その本質は論理の機械なのだ。こうして論理学を数学の土台に据えるという記号論理学が目指した深遠な哲学的課題は、具体的な機械の姿で実現され、主導権は数学者でも哲学者でもなく、技術者と呼ばれる一群の人々の手に移ることになる。
  • 神々との取引

  • 論理を電子回路という物質に具現したことは、ある意味で真理をめぐる神々と人間との取り引きだったのかも知れない。数学者や物理学者は、書物としての世界に封印された神の暗号が読み解かれるべきものであり、まだ見ぬ解読コードがあるとすれば、それは極めて単純な形式で記述できるものと無意識のうちに信仰してきた。単純さは美であり、神秘であり、完全性と普遍性を保証するものだった。この解読コードは、選ばれた天才(シャーマン)の思考のうちに、緻密な論理の積み上げと天啓の直感によって把握されるはずであった。
    しかし、コンピュータは、すべての知の営みを具体的な地平にひきずり降ろした。例えば、コンピュータは、数を二進数の記号表現でしか扱えないため、√2などの無理数は、実数へと置き換えられなくてはならない。小数点以下どれほどの桁数を取ろうとも、そこには必ず誤差を伴う。無限の概念も扱えない。天上のイデア界に住まう完璧な三角形は、地上に降りて歪みや誤差をまとったいびつな三角形に甘んじる。数学者や論理学者が沈思するための地平を構成してきた完璧で透明な空間は、コンピュータの中では有限で誤差を含んだ物理空間になる。
    にもかかわらず、なぜ彼らはコンピュータを使うのか?コンピュータは、人間の手では生涯かかっても計算できない膨大なステップを高速で実行してみせる。真理に導かれる啓示のごとき直感は、複雑な微分方程式を天文学的な回数実行する具体的な処理に圧倒される。人間は神の完全性を見失った引き替えに、決して自分では生きられない神の時間と速度の近似値を手に入れたのだ。数学者や物理学者は、固有の伝統的な課題を可決するため、道具としてコンピュータを使い始めたのだろう。しかし、実際に起こったことは、逆にコンピュータがこれらの基礎学問に対して扱うべき問題を設定し、アプローチの仕方とその限界を定め、解答のフォーマットを決めるという重大な転換だった。体系性の自己崩壊を経験した以降、数学の中で最も活気に満ちた研究領域は、皮肉にもコンピュータが行なう計算の誤差をいかに縮小するか、計算過程をいかに効率よくするかというアルゴリズムの開発に関係するものだった。
  • 知の再編
  • 数学と物理学に起こったのと同じ事態は、すぐさま他の領域にも波及する。全体的な知の再編が始まった。普遍性の百花繚乱は、再び新しい統一的観点から統合されようとしている。もはや数学を基礎言語とし物理学を実践上の模範とする諸学問のヒエラルキーは崩れた。情報概念とコミュニケーションのサイバネティックな一般理論が、自然科学だけでなくさまざまな知の営みに共通の言葉と方法を提供し、従来の理論を新しい言葉に変換する。いまや、数学、物理学、生物学、経済学、社会学、政治学等々、独自の研究対象と方法を模索してきた知の営み(世界を眺め、説明する多方向の視点)は、互いに翻訳可能な言語で結びあわされる。普遍神話の書き換えだ。
    しかし、そこで行なわれている中身と言えば、知識の全体を情報という名の記号に置き換え、機械に乗せることに過ぎない。またしても「....に過ぎない」だ。コンピュータが行なっていることも、有限個の規則にしたがって、一度に一個の離散的記号を置き換えるだけのことに過ぎない。にもかかわらず、「....に過ぎない」というこの控えめな立場のなかに、ある言語システムを別の言語システムに一気に変換するという文明規模の認識論的事件が隠されている。これは新たなメタ神話なのだろうか?情報という概念は、いったい何を説明し、何を与え、何を奪うのだろうか?

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