音楽以前の音楽テクノロジー論序説
Introduction to Theory of Musical Technology before Music

佐近田展康


第1回 文化現象としてのテクノロジー

Xebec "Sound Arts" vol.14 (1998)所収

English translation

 これから始まる果てどもない論考は、音楽とテクノロジーの関係をテーマにする。音楽は文化の違いを超えていつの時代も技術と深く結びついてきた。けれども、コンピュータが作曲・演奏・聴取のさまざまな領域でますます不可欠なものとなりつつある現代、音楽とテクノロジーとの間には過去のいかなる時代とも異なった特殊な結びつきが生まれているように思える。音楽家も批評家も聴衆も、テクノロジーという言葉に、無条件に期待し、過剰に反応する。現代の芸術を志す以上、それは使わなければならない最初のカードであると同時に、いつでも切れる最後の免罪符でもあるかのようだ。音楽家は、新しい芸術的表現の鉱脈を掘り当てるため、取りあえずテクノロジーの進歩に遅れないように追いつこうとする。そこでは「新規さ」が競い合われ、鉱脈探しの途上にある音楽は「過渡期的」「実験的」という言葉で評価を猶予される。音楽の歴史において、このようにテクノロジーに対する過敏な意識が当然のように共有される現状は、冷静に考えれば特殊な事態だと言わざるをえない。したがって、ここでの問いは、歴史を超えてあるべき音楽と技術の一般的な姿ではなく、はっきりと「現代」に向けられる。現代という特殊な社会文化的コンテクストにおける音楽とテクノロジー、そしてコンピュータを使って音楽を試みている自分自身にだ。
 これまでぼくは、MAXに関する著作やレクチャーを通じて「プログラミングによる作曲は、さまざまな既成概念から自由になり、自分のアイデアを直接表現することだ」などと訳知り顔で吹聴してきた。ここには自由、自分のアイデア、表現といった実にアブナイ言葉の地雷が並んでいる。どうやらそれを踏んでしまったようだ。おかげで、ぼくは昨年の夏に頭の中で血を流し、最先端医療テクノロジーに脳をたっぷり操作してもらうハメになった。以来、テクノロジーと音楽に対して不健康な思考に沈殿し、ぼくは立ち止まったままでいる。動き出すためには、この不健康な思考に一定の決着を付けざるをえない。したがって、この論考は私的な(どちらかといえばマゾヒスティックな)尋問であり、取調室の刑事と被疑者はどちらもぼく自身だ。
 最初に問題を要約しておこう。この論考での問いかけは、これまで音楽の世界で明示的に問われることのなかったものだ。意識するしないに関わらず、音楽においてコンピュータを使うことで、あるいはコンピュータを使おうと意図すること自体において、ぼくたちは、確実に「何か」を背負うことになる。この「何か」を探求しようというのである。ぼくたちはすでに、テクノロジーは単なる道具的手段以上のものだということに、薄々気が付いている。画家にとっての絵筆と、音楽家にとってのコンピュータは、同じ関係とは言えない。にもかかわらず、音楽の現場では、他の生活領域全般と同じく、テクノロジーが新たに切り開いてくれる道具的な可能性のみが論議の対象となっている。その背後にあってテクノロジーの信仰を支えているもの、現代社会のなかでテクノロジーと音楽とぼくたち自身が占めるそれぞれの位置、テクノロジカルな思考と芸術的行為の調停といった問題は直視されることがない。ぼくにとって、これらの問題は決して思弁的遊戯ではなく、今後の音楽活動を進めるための実践的な問いなのだ。
このため、ひとまず音楽から離れて、現代の社会文化的コンテクストにおけるテクノロジーとは、コンピュータとはそもそも何かという、とても地味で遠回りな問いから始めたい。テクノロジーは氾濫しているにもかかわらず、実は正体不明のまま放置されている。調べるほどに、これはとてつもなく巨大な思想上の怪物を相手にする向こう見ずな戦いだということも分かってくる。果たしてこの論考が何らかの結論や実践的な見取り図を導くところまで進むのかどうか、しばらくはサディスティックな視線で眺めていて欲しい。


1. 文化現象としてのテクノロジー


 西欧中世の手工業技術から、現代の情報テクノロジーまでを大雑把に眺めてみると、ドミノ倒しのように「なるべくしてそうなった」とも、乱流運動のように「たまたまそうなった」とも映る。つまり、前の時代の技術的達成が次の時代のそれを客観的に決定してきたという見方もできるし、多くの偶発的な出来事が常に予測不可能な複雑な道筋で技術を発展させてきたという見方も可能である。(技術発展の歴史は純粋に技術内部に固有な用語だけで記述可能である一方、天才発明家たちの異端の系譜としても描くことができる。)しかし、粗雑な議論を覚悟でいえば、人間は単に技術の論理に従うだけでなく、そのつど技術の進むべき方向を暗黙のうちに「選択」してきた。しかもこれは偶然に生まれ落ちた天才たちの選択ではなく文化的な選択であり、多様な可能性の中にあって結局は現代のテクノロジーへとつながる道を選び取った「方向性を持つ選択」だったのだ。
  • 合理性・科学・テクノロジー

  •  ウェーバーはこの方向性を「西欧社会のあらゆる領域における合理化の進展」として捉え、その原動力を宗教倫理とりわけ中世プロテスタントの合理性を重んじる禁欲精神に求めた。簡単に言えば「神が望みたもう目的にかなうため、人間は邪念・因習に曇らされることなく最も効果のある手段を選び、理にかなった行動に専念すべし」ということだ。もちろんこの「神が望みたもう目的」が後に「富の蓄積」「生産の管理」「政治的支配」などへと世俗化したことは言うまでもない。
     ところで、技術においてあるものが合理的で、別のものが非合理的であるという最終的な確証はどこに求められるのか?ここに科学的思考と技術の相互フィードバックの関係が現れる。西欧の近代思想はデカルトとガリレオに端を発すると言われるが、これは彼らが近代的理性と機械論的自然観の明確な定式化を行ったことに由来する。つまり自然はあたかもひとつの自動機械のように一定の普遍的法則のもとに動いており、人間は理性によってその法則を知ることができる。機械の論理と数学的な論理は一体となり、法則をもとにして自然を客観的に理解すると同時にそれを利用する行為に道を開く。個別の実用的で経験的な技術知の集積は、普遍法則に基礎づけられた原理にまで一般化され、別の領域にも適用される。こうして学問は科学となり、技術はテクノロジーとなったのだ。科学の知見がテクノロジーに反映し、テクノロジーの成果が新たな科学的探求を可能にするというインタラクティブな関係は、共通の知的方法の基盤の上で初めて現実のもとのなる。そしてこの関係が確立したからこそ、産業革命以降のテクノロジーの爆発的な進展を見るのである。
  • テクノロジーの中立性

  •  科学による客観的な認識が世界を覆い尽くすにつれて、テクノロジーは科学が提出するあらゆる可能性を行使しつつ、ひたすら脱文脈化の道を突き進む。つまり、特定の目的と結びついた手段の合理性という考え方が、時代とともに目的如何に関わりなく手段の効率性を極限まで求める合理性へと形式主義化し、広く浸透していく。こうして手段としての技術は、どのように価値付けられた目的とも無関係な(あるいは目的を必要とさえしない)「中立的」存在という特別な座席を与えられるようになった。このことは例えば、コンピュータが権力にとって最も効率的な管理手段である反面、反体制派や小数派にとっても民主的変革の武器になり得るというような、テクノロジーの道具的中立性の強固な信念となってぼくたちの常識を構成している。
  • 近代的自我と世界

  •  さて、今度は人間の方に目を向けよう。純粋な理性にまで透明化された人間(自我)は対象世界から少し離れた場所に立つ。そこから彼は世界を本質的に技術的管理の対象として見るようになる。大雑把に言えば、自立した個人が中立的なテクノロジーを使って普遍法則の支配する客観的世界を管理する、これが近代的自我が世界と向き合う図式だということになる。つまりデカルトにとってひとつの知的方法であった理性が、社会文化的な文脈に移し変えられ、「人間とは....」「世界とは....」という形而上学的な問いを左右する文化的基礎へと転化したわけだ。
  • テクノロジカルな合理性とポストモダン社会

  •  マルクーゼによれば、発達した資本主義のもとではテクノロジーはあらゆる物的生産の普遍的な形式となり、一つの文化全体の輪郭を取り決める。あるいは一つの歴史の全体を、一つの「世界」をデザインするようになる。つまり、現代の人間にとって世界への関わり方は、いつも技術的手段による働きかけという形を取り、その意味で世界そのものが巨大な技術的問題群として立ち現れ、それ以外の姿をもはや取らなくなるということだ。そしてその世界での唯一納得できる正当な規範は、もはや宗教倫理でも法でもなく、「テクノロジカルな合理性」に他ならない。
     コンピュータのマニュアルを例に取ろう。この何の装飾もない分厚い書物は「やるべきこと」と「やってはいけないこと」、つまりユーザに対する命令と禁止から構成されている。考えてみれば極めて抑圧的、拘束的な内容であり、いかに親しみやすい言葉で書かれていようが、まさに聖典や法律と同じ形式の言説なのだ。そこには真理や崇高な理念はもちろん存在しないし、支配者の実像も見えない。違反した場合の罰も単にうまくコンピュータが使えないというだけのことで、火あぶりの刑に処せられることもない。にもかかわらず、重要なのはそれがこれほど多くの人間を「自発的に」服従させている事実にある。政治権力や資本家、あらゆるエスタブリッシュメントへの根深い不信を持つ人でも、テクノロジーが課してくる行動様式や拘束には疑問なく従う。
     およそ何かの規範に自発的に服従するということは、従うだけの正当な理由と誰からも強制されずに自分で選び取っているという「自由」の感覚が社会的に共有されていることが必要だ。マニュアルに書かれている命令と禁止は、その製品がそのように作られているという至極単純な理由のために正当性を持つ。その正当性は一方で「現在の技術水準ではここまでが限界だが、近い将来には改良される」と、もう一方で「嫌ならばいつでも他の選択肢を求めるか、そうでなければ放棄すればいい」という2つの信念によって、拘束や抑圧につきまとうあらゆる反省や批判を未来に先送りし、不断に更新されていく。つまりテクノロジカルな合理性にもとづく規範は、原理的にいつも完全無欠のままでいられるということだ。人類史上最も強力な規範、権力がこれを利用しないはずはなく、実際に今日の権力は脱政治化、脱イデオロギー化を進めながら「単なる」技術上の管理という形式でふるわれる。
     逆説的に見えるが、ぼくたちはこうしたテクノロジカルな合理性を引き受け、自分の中に内面化することで、支配されたり拘束されたりするどころか、かえって多くの自由の感覚を手にする。フーコーが看破したように、従属すること(subjection)は主体的になること(subjectification)なのである。テクノロジーの所有権をめぐる政治闘争の時代は終わった。階級関係の目に見えるメディアとしてテクノロジーがシンボライズされる時代も終わった。チャップリンが不安げに身を委ねる巨大な歯車も、タイタニックの船底で汗みどろの労働者の手から石炭を喰らい込む蒸気エンジンも過去のイメージだ。いまはテクノロジーが万人に商品として広く消費される時代なのだ。テクノロジーを多く消費すればするほど、人間は世界に対して潜在的に全能の神として振る舞う立場に立つ。デカルト流の近代的理性は、今日、形而上学的には無効を宣告されつつも、もはや精神ではなく美しくラッピングされたクリスマスプレゼントになった。

     ぼくがこれまで駆け足で素描してきたのは、今日のテクノロジーが、人間の社会や文化の外側にある(したがって普遍的で中立的な)存在ではなく、まさに現実の歴史的過程で特定の社会文化的コンテクストの中で進展してきた文化現象だということだ。しかも現在、この文化現象は全世界的規模で全生活領域にわたって浸透し、そこでは社会や個人にとって世界や環境と同義語にまでなろうとしている。ぼくたちが音楽について問いを発する場所も、まさにこの文化の内側なのである。

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