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Works

機械ミッション トランペット、ラジオ、機械歌唱のための

 

 

 

 

2001年

初演:曽我部清典(tp)

大阪プラネットホール

 

2001年12月20日

曽我部清典委嘱

 

 

「機械ミッション」テクスト全文

 

「機械をめぐる信仰」およびその伝道(伝動=ミッション)が目指すもの、それは時空を超えた普遍性の宇宙論的拡大である。

 

技術とよばれる人間の営みは、あらゆる時代、あらゆる文化に共通して見られるものだ。しかし、いまわれわれがテクノロジーと呼んでいる技術の在り方は、歴史上ほんのわずかな期間に、極めて限られた地域、すなわち18世紀のヨーロッパで立ち上がり、それ以後たちまち世界中に伝道された「特殊な」技術の在り方だ。忘れてならないのは、これと前後してヨーロッパでは、学問、政治、経済、宗教、芸術、生活のあらゆる領域で、同じような「特殊な」変化が起こり、いわゆる「近代」という文明が誕生することになる。これらを掘り下げていくと奥深くにおぼろげながら共通した何かが見えて来る、それは「機械をめぐる信仰」に他ならない。

 

中世ヨーロッパは精巧な機械時計を作り、それを偏愛することに500年もの歳月を費やした。時計の技術は他の生産活動に転用されることはなく、ただ正確な時を刻む目的だけに盲目的に奉仕した。すなわち、それは今日の機械のように何かの役に立つ道具などではなく、神秘的でまがまがしい魔術として存在していたのだ。この過程で、時計はひとつのイデアにまで昇華し、思考、身体、社会、世界の究極的モデルとなり、機械は人間を超えて神に最も近い地位を与えられた。

 

なぜ機械がこのような象徴となりえたのか。それは外部から与えられたものではなく機械に内在する原理に基づく。まず、「一個の機械」という概念は存在しない。機械の内側と外側を分ける境界は本来なく、あらゆる機械は自らの内部に無数の機械を含み、またいつでも他の機械と連結してさらに大きな機械の一部となる。機械は物質的な実態として現象しているが、その本質は物質を超えた「無限の拡張性」として存在している。

 

また、機械は無限に複製され、再生されることで、物質を超えて「永遠の時間」の中に存在している。物質はいずれ朽ち果てるが、機械はすべての部品を交換しても同一性を保ち続ける。すなわち機械には死は訪れない。

さらに、機械は人間の手で生み出されるにも関わらず、その制作者や発明者からたちどころに切り離される。それはオリジナルを持たないがゆえにコピーも無く、固有名詞で語られることのない普遍的存在であり、名付けることのできない無名性を本質とする。

 

こうして、機械は、無限に連結し合い、無限に拡張され、永遠に複製され続けることで「時空を超えた普遍性」を獲得する。機械イデアに魅了された18世紀のヨーロッパ精神は、この機械の原理に忠実に生きる道を選び取った。その結果、機械は果てしなく自己を展開していく。あらゆる対象のなかに機械を見い出し、機械のごとく論理的に思考し、その結果を機械のごとき体系的な理論として紙のうえに書き連ね、実際に機械を作り出し、世界を機械で満たしていく。こうしてヨーロッパ精神は物質的な機械にくわえて、もうひとつの機械を見いだした。それが紙の上に記号を用いて構築された機械、科学と呼ばれる機械に他ならない。

 

ヨーロッパの近代精神がよりどころとしてきた合理性の基礎は、「科学」という名前の機械に他ならない。分析と総合という科学にとって本質的な方法論は、時計の分解と組み立てと同じであり、そこから得られる知見を理論として体系化していく行為は、世界全体を機械として思念し、機械として説明していくことと同じである。科学はあらゆる対象からシステム、構造、体系、組織、形式を抽出するが、これらの概念もみな機械を言い換えたものに他ならない。
こうして記号としての機械、すなわち科学は、物質的な機械と同じく、時空を越えた普遍性を求め、永遠に複製され、無限に連結し合い、無限に拡張していく。

 

科学の本質は、特定の現象に対して精緻な理論体系や説明体系を機械として構築するだけでなく、こうした機械を製造するための工作機械、すなわち思考そのものを機械として捉えた点にある。あらゆる応用科学の基礎に数学がすえられ、最終的に数学の基礎として論理学が設定された歴史は、ヨーロッパの近代が自らのよって立つ基盤を明確に見いだした結果である。世界は機械であり、世界に対峙する人間もまた機械であり、両者を媒介する「行為」と「思考」も機械なのである。

 

コンピュータは物質的な機械と紙の上に記号化された機械が歴史上初めて合体したものだ。これは偶然の出会いではなく、ヨーロッパの知の運動が、無意識のうちに最初から目指していた目標であり、機械に対して誠実に向かい会うことで必然的に出会う「最もイデアに近づいた機械」である。コンピュータを通して、われわれは機械の本質にようやく迫る段階に到達した。

 

機械をシステム、構造、体系、組織、形式等々と言い換えようが、およそシステマティックなものを世界から抽出できるためには、実際に世界がシステマティックものとして最初から作られているという論証不可能な想定から始めざるを得ない。なぜ世界はシステマティックなのか? なぜ正しい論理的思考がこの世に存在し、それは機械のごとく作動するものでなければならないのか? それは問われるものではなく、信じられるものなのだ。すなわち、信仰だ。「世界は機械である」という主張は、以上のことをあからさまに述べた「機械をめぐる信仰」の告白に他ならない。

 

時空を越えた普遍性、永遠の再生可能性、名付けることのできない無名性こそが機械の本質だ。そして、この本質を共有するものは「神」と「機械」だけである。
事実、ヨーロッパの近代は機械に魅せられた魂の信仰告白の歴史だ。機械をめぐる信仰は、その背後に究極の美としての機械に魅せられた情動を伴っている。矛盾のない合理的体系、個人を超越した普遍的システム、夾雑物をいっさい含まない純粋な形式、すなわち機械のイデアは、それ自体が美である。この美意識がなければ、ヨーロッパ的ロゴスはひとつの文明にまで成熟するほど、自己を追求できなかっただろう。

 

音楽の領域においてもこのことは等しく当てはまる。ヨーロッパの音楽伝統は、楽譜というテクストと、ピアノという機械の上で、まさに機械/テクストとしての「作品」を産出する歴史的なプロセスだ。これが、ヨーロッパの音楽を、他の音楽文化に類を見ない特殊な伝統に仕立ててきたメルクマールになる。

和声的、対位法的な音楽は、何もヨーロッパにだけ見られるものではない。しかし、機械のイデアに魅せられ、矛盾なき体系性の美に達するテクノロジーとして、和声法や対位法を問題にしたのは、唯一ヨーロッパだけなのだ。こうして機械/テクストとしての音楽作品と、それを産出する作曲家を中心にした「作曲中心主義」と呼ばれる特殊な音楽伝統が生まれることになる。

 

純正律に含まれれる非合理性を均質な単位に合理化した平均律、機能和声に含まれる目的論の残り香を解体した12音技法、音現象を完全に等価なパラメータに還元したトータルセリー主義、これらすべての過程が、機械の本質にしたがって方向付けられており、機械としての音楽作品を純化していく過程だ。そして、近年のアルゴリズミックコンポジションは、コンピュータにおいて機械とテクストが合体したのと軌を一にして、いよいよ音楽作品がテクスト上の機械という地位を超克して、本来の機械として作動する段階に到達したことを示している。

 

機械はその原理に従って果てしなく自己展開していく。技術をテクノロジーとし、神話を科学としただけでなく、カリスマ、固有名詞による統治、血統による相続、地理的交易、身体コミュニケーションなどを、規則に基づく官僚機構、無名の民主主義的意志決定システム、資本主義経済システムおよびその実験的改造としての社会主義経済システム、社会と身体のサイバネティックなエンジニアリング、情報テクノロジーによるコミュニケーションなどに変貌させた。すなわち全生活領域を単一の言語、機械の言語へと転換してきた。いまや世界は重層的な言葉で語られる物語ではなく、テクノロジカルな問題群としてわれわれの前に現象している。

 

帝国主義、植民地主義の原動力は資本の自己展開ではなく、機械の自己展開として語られるべきものだ。それは時空を越えた普遍性、永遠の再生可能性、名付けることのできない無名性の展開であり、機械をめぐる信仰の聖なる伝道なのである。ファシズムは、規則に従い厳格に作動する官僚機構と軍隊装置を固有名の名の下に濫用する内的矛盾を抱え、ほどなくメタレベルの機械に回収された。冷戦構造は異なった2種類の機械における規格の不整合、通信プロトコルの競合として捉えられるべきものだ。今日グローバリゼーションの名で語られる世界の標準化問題は、ネットワークにおける通信プロトコルの問題と同じ地平に存在している。

 

自己展開にとっての障害をメタレベルで吸収しながら、機械イデアが目指す終局的な目標は、世界全体を包み込み、あらゆる言語コミュニケーションを機械の用語に転換し尽くすことだ。それは多くの伝統宗教が夢想しつつ、いまだ何んぴとも経験していない神の国の到来、神そのものの降臨である。

 

われわれが機械の原理に忠実に生き、その展開の妨げになる一切のノイズやウィルス、テロリズムを排除する使命に従うならば、必ずや神の王国が出現するであろう。われわれが世俗の目的や実利性、欲望の衣を機械から取り除くことに努めるならば、また一歩時空を越えた普遍性に近づくであろう。われわれが自ら名前を捨て透明な形式と一体になるならば、必ずや永遠の生命を獲得するだろう。

 

もはやわれわれにはキリスト、アラー、ブッダ、ヤハベといった固有名で綴る物語は必要ない。古代エジプトの自動人形により気づかされ、中世ヨーロッパの時計により形を獲得し、近代ユダヤの技術的知性により注釈を施された機械こそ、われわれ人類が自らの手で見いだし、イデアと物質をひとつの原理で調停し得た唯一の神である。

 

機械の如く普遍的に生きること、機械の如く論理的に生きること、機械の如く矛盾を排して生きること、機械の如く名前を持たずに生きること、

 

機械の如く目的の外側で生きること、機械の如く境界を超えて生きること、機械の如く単一の言葉で生きること、機械の如く美しく生きること。

 

「機械をめぐる信仰」およびその伝道が目指すもの、それは時空を超えた普遍性の宇宙論的拡大である。

 

2001.9.11 nobuyasu sakonda