FORMANT BROTHERS

ACTIVITY

シンポジウム「メディア・アートにおける音楽とはなにか」

日時: 2011年2月25日(金)19時〜
会場: NTTインターコミュニケーションセンター[ICC] 4階 特設会場
出演:三輪眞弘(フォルマント兄弟),吉岡洋,佐々木敦,畠中実(司会)
 

ICC ONLINE情報
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2010/Vibrations_of_Entities/events/talk0225_j.html

 
ビデオ録画(ICC HIVE)
シンポジウム前半 http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20110225
シンポジウム後半 http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20110225_2

 


シンポジウムによせて

 

それではまず、フォルマント兄弟から今日のシポジウムのテーマについて手短にお話ししたいと思います。

 

明後日に終了する、今回の『みえないちから』展にフォルマント兄弟も作品を出品しないかとICCの畠中さんから打診をいただいたのは昨年の夏のことでした。ご存知の方もおられるかと思いますが、フォルマント兄弟はふたりとも音楽、あるいは作曲に対する興味から今まで様々な試みを続けてきたわけですが、いわゆる展覧会に出品するようなものを兄弟の作品として手がけたことはありませんでした。

 

美術、音楽、あるいはメディアアート、いや、そもそも西洋から輸入された芸術という概念と私たち日本人が古くから知る様々な芸能というものとの境界線自体を今、問い直さなければならないと私たちは意気込んでいましたが、それでもやはり、長期間の鑑賞に耐えうる「展示作品」を新たに創り出す準備も経験もないことは明らかでした。どうするか、辞退するか、それとも兄弟の今までの思索をまとめてパネル展示のようなものを提案するか、展覧会にわざわざ来てもらってパネル展示もないだろう・・・大変に悩みました。そして兄弟でいろいろ話しあっていく中でたどり着いたのが、この『フォルマント兄弟のお化け屋敷』でした。

 

現代でいうところのテーマパークのアトラクションのような、新しいようで古いこの「お化け屋敷」を私たちはひとつの「形式」ととらえ、パネル展示でもなく、芸術作品でもない、つまり、読解したり鑑賞したりするものではない、「装置の体験」という表現として計画しました。そのような意味でこのICCの展覧会が、アート作品を広い意味でとらえて展示する機会だとしても、私たちの作品ははじめからカテゴリーエラーを起こしていたことになりますし、それを承知の上で、もはや「作品」とは呼べないかもしれない「何か」を展覧会という場で表現してみようと考えたわけです。

 

そして、その表現したかった「何か」とは何か・・・?

それは、ひとことで言えば「人間が装置を使って何かを表現するとはどのようなことなのか?」という問題提起です。そもそも、兄弟がメディアアートというものに深く関わることになったのは、若い時に憧れ、目指した「音楽」のためでした。しかし、現代社会における音楽のあり方や意味を考えれば考えるほど、その問題の核心は音楽の知識や歴史とは異なる、ある深い疑問へとつながっていきます。従来の芸術のジャンルを超えた、きわめて多様でありながらも、たったひとつのカテゴリー、すなわち「装置を使った表現一般」へと、です。つまり、この「装置を使った表現」に対する最低限の理解なしには「音楽」というものを考えてみることさえままならない、という点において、兄も弟も問題意識はまったく一致していました。

 

今回の『フォルマント兄弟のお化け屋敷』という作品、いや表現と呼びましょう、は、そのことに対する私たちの真正面からの返答でした。もちろん、表面的にはたいして驚かせるような恐ろしい仕掛けがあるわけでもなく、ただ話を順番に聞かされるだけの表現だったわけですが、文章で読んでもらうのでもなく、お講義として同時にたくさんの人にきいてもらうのでもない、それらとは異なる体験として兄弟の問題意識を伝えることができないかと考えたわけです。たとえば、宇宙衛星からデジタル化されたポルノ映像がお茶の間に降り注ぐというとてつもないことが日常となっている現代において、私たちがメディア装置に接する際に漠然と抱いている不安、不気味さは一体どこから来るのか?それを単なる70、80年代のオカルトブームの再来のように片付けるのではなく、今だからこそもっと根本的なところから語ることはできないのか?・・・そのような思いを兄弟は「私が、自分は嘘つきであると語る」ような地平、すなわち「映像が映像の本質について語る」自己言及的な状況を作ることで提示できないだろうか、と考えたわけです。

 

もちろん、兄弟の抱く問題意識について、私たちよりもはるかに深い洞察を与えた思想家や評論家が少なからず居ることは十分にわかっているつもりです。しかし、どこかの誰かがそれをより深く理解していても意味が無い。私たちは自分たちの頭でそれを理解し、自分たちの言葉で語る必要性を感じています。それはもはや好奇心や知識欲というものではなく、私たちが目指した「音楽」、さらに言えば、芸術をはじめとする文化的な人間の営みが未来の社会においてどのように可能なのかを占う上で不可欠なことだと切実に感じているからです。なぜなら、その視点なしには、人類には永遠につづくことになっている電力供給と科学技術の進化を前提にして視聴覚装置と無邪気に戯れ続けていく以外に、他のどんな可能性も見えてこないと感じるからです。

 

さらに、そのようなシリアスな問題意識 ── それを広く「メディア論的問題」と呼びましょう ── が、兄弟にとってどうしても切実なテーマであるのには、もうひとつ、少し個人的な理由もあります。兄弟はふたりとも大学で日々、若者たちと接しています。彼らは、ビデオ、アニメーション、コンピュータ音楽、サウンドアート、インタラクティブなインスタレーション、ウェブデザインなどなど、考えられる限りの「装置を使った表現」に挑戦しています。そのような若者たちに対して何かを伝える、教える立場の大人は一体彼らにとってどのような存在であったら良いのでしょう?芸術における古今東西の古典が忘れ去られ、表現におけるすべての規範が崩壊したかに見える現代において、大人が何を根拠に学生たちの作品を評価したり、指導したりできるというのでしょう?もはや評価にはその場限りの「面白さ」やネット上の人気、商品として売れたかどうか・・・そのような「ものさし」しか残されていないのでしょうか?私たちはもちろん、それらも重要な「ものさし」のひとつだと考えています。しかし、大人としてそれだけで「人間が作ったもの」を評価してはいけないとも考えています。では、そうではない、別の「ものさし」とは何か?そのようなものがまだあり得るのか?

 

『お化け屋敷』を構想する時期と並行して兄弟はそのことについて考え、別のプロジェクトを計画していました。それが『フォルマント兄弟のプレゼンテーション道場』です。このプロジェクトは「メディアアートにおける音楽の現在」をテーマに問いかけを行い、若いアーティストやアーティストを目指している人たちから広く作品を公募し、選考するプロジェクトです。企画を進めるにあたっては、言い出しっぺである兄弟はあくまで運営に徹し、選考に一切関わらないことを最初に決めていました。その代わりにこのテーマについて「兄弟がいまぜひともお話を聞いてみたい方々」にお願いして選考委員に迎えることにしたのです。その選考委員の方々が佐々木敦さん、畠中実さん、(今日は来られていませんが)椹木野衣さん、です。また、吉岡洋さんには悩み多き兄弟のアドバイザーとして企画全体の最初から最後まで参加していただきました。

 

以上のような、ある意味で「思い詰めた」兄弟の問題意識から出発したプロジェクトであったため、応募者にとっては気軽に応募するのに躊躇してしまう、ハードルの高い企画に見えるかも知れないとの心配がありました。じっさい、最終的に集まった応募総数は13件で、やっぱり・・・と、一度は感じました。しかし、内容を見て行くと、いずれも兄弟の問いかけに多面的な視点から応えようとしてくれている力作ばかりで、どの作品が選ばれてもまったくおかしくない水準だったことに、胸をなで下ろすとともに勇気づけられる思いでした。そして、選考委員の三名の方々によるセレクション、それぞれの選考理由は、まさにテーマをめぐるお三方の視点をクリアに映し出すもので、岐阜県大垣市のIAMASで開催された三作品のプレゼンテーションおよびディスカッションを通じて、この問題に対するいっそう広範で掘り下げたディスカッションが展開できたと嬉しく思っています。

 

本日は再びこうして皆さんに集まっていただき、2つの企画全体をあらためて振り返るシンポジウムが開催できたことに感謝しております。